人と海とのつながりを色濃く残す、垣
垣とは、沿岸部の浅瀬にサンゴの石垣を積み、満潮時に海岸の海藻を食べに来た魚が、干潮時に石垣にはばまれ戻ることが出来ず潮溜まりに身を寄せているところを網や手づかみで捕ったという潮の干満を利用して魚を捕った原始的な定置漁具です。沖縄県下では一般的に魚垣(ナガキィ)と呼ばれますが、白保では、垣(カチ)と呼びます。
白保での垣の歴史・分布
島の人々の多くは、その昔、半農半漁の暮らしをしていました。白保集落でも、宮良川から通路川までの広い範囲の海を利用して生活をしていました。1980年代後半に実施された聞き取り調査によると白保集落の北側、通路川までの間に少なくとも16個の垣があったとされています。垣が築かれた場所は、一族の田畑のそばであり、潮に合わせて畑仕事の手を休めて海に下りることができる場所に築かれました。
16箇所ある垣の中で、最も古い垣は宮良家の *1メーレーヌカチであり、1771年明和の大津波の生存者が言い伝えたとされています。また、世持家の*2ユムチェーヌカチィは、昭和48年まで使用されていて、戦前、戦後を通して一時の中断も無く引き継がれてきました。ユムチェーヌカチィが長い間利用されたのは集落に近く、何時でも行ける場所であったからだと考えられます。
白保の海岸のほとんどに設置された垣ですが、キット台風で大きく壊されたこともあり次第に使われなくなりました。その後、石積みに使われた石も市街地の埋め立ての際に運び出され今では海岸付近浅瀬に点在する石が当時の面影を残すのみとなっています。
形態と規模の記録
ユヌムレーヌカチィ 語り人 米盛実
戦前、戦後に渡り利用された垣で、大きさは最も大きく2町5反ぐらいでした。半径約130mの半円形であり、石積みはピラミッド型で高さは1m20㎝ぐらいでした。
カーラーヌカチィ 語り人 嘉良直正
カーレヌカチは、56、7年前ぐらいまで直正さんの祖父が魚を捕っていた。戦後は、世持はてるさんがカーレーヌカチィを借りうけ、ユムチェーヌカチィとあわせて同じ一つの大きなカチィとして昭和40年代頃まで使用していた。カチィには網をかけ魚を捕る袖(捕魚部)が設けられていた。石積みの高さは100cm無いぐらい。
フタムレーヌカチィ 語り人 米盛三五の娘ヤス子
戦後に築かれたもので、大きさは7反ぐらい。ピラミッド型の石積みで高さは90cmぐらいでした。
シマナゲーヌカチィ 語り人 内原太郎
戦前については不明、戦後一時期利用された垣で、大きさは良く分かっていません。しかし、石積みはピラミッド型で高さが1m10cmぐらいでした。
ユムチェーヌカチィ 語り人 世持トシ
戦前戦後利用されたもので、大きさは良く分かっていませんが半円形の垣の一番奥に1m50cmぐらいの入り口が作られていました。中潮、小潮のときは開けておき潮の流れを良くし、大潮のときに石でふさぎ魚をとりました。
ンゲーヌカチィ 語り人 金嶺英次
戦前戦後利用されたもので、大きさは1町5反でした。浜の砂地を利用しピラミッド型の石積みを1m20cmほど積み上げました。半円形の石積みの2箇所を開け魚が出入りしやすいようにした。潮時を見て閉めておき魚をとりました。
ウスパレーヌカチィ 語り人 内原克
大きさは良く分かりませんが、アーサの崎とよばれる岩場を利用して垣を築きました。